『放課後倶楽部』の活動日記

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対人恐怖症人間が呪文を唱えて耐え忍ぶ今日この頃【デイケア日記】

今日は精神科デイケアに行った。

また雑談の輪の中に入れず、一人で文章など書いてやり過していた。

いや、本当は書くフリをしていた。

会話をシャットアウトしようとしても、どうしても耳に入ってきて、書くことに集中できない。
内心、文章を書くことより、自分もあんな風に気軽に輪の中に入って仲良く雑談を楽しめたらと嫉妬心が渦巻いているので、文章など手につかない。

スタッフには「自分は別に雑談なんてしに来ているわけじゃないから」「なぜお金を払ってわざわざ雑談しに来なければいけないのか」などと強がりを言っていたが、本当はただ加わりたいどころか、どっかり中心に腰を据えてワイワイと雑談がしたいんだ。
自分に嘘はつけない。だからストレスになる。

いい歳をして話しかけて雑談に加わる勇気もなく、心の内で指を加えて嫉妬している自分がほとほと嫌になる。

思えば小学生低学年の頃からすでにそうだった。

みんなが運動場に出てサッカーなどをしているのに加われず、教室の席に座って一人おはじきセットで遊ぶフリをしていた。
新学期が始まって、いつものように段取り的に荷物入れにおはじきセットを取りに行くと、家に持って帰ったままだったことに気づいて愕然とし、吐きそうになったことがあった。
クラスメイトにボッチだと後ろ指を指されるのが怖かったのだ。

自分は大人になった今でも、根本的にその頃から変わっていない。
人にどう思われるかばかりを気にして、本当の自分を出して心のコアが傷つくのを恐れている。
だから、自然体で打ち解けるということがない。
身の丈以上の「すごい自分」を身に纏って人と接して、劣った立場に立たないよう常に警戒してきた。

そんな風にやってきたものだから、能力的にもメンタル的にも限界が来た時にひきこもった。
逃げることで何とか自尊心を保つために。
一旦は精神障害者という形をとることで何とか社会に戻ることはできた。
それでもやがて歳をとり、無理もきかなくなってきた。
まだ、人前に弱い自分を曝け出しても大丈夫なメンタリティも養われていなかったので、恐怖と自己嫌悪と抑うつから病気がぶり返した。

「人はみんな自分自身の人生に関心があるのであって、他人のために生きているわけじゃない。だからいちいち他人のことなど本当には気にしていない」
《赤ん坊のために命を捨てる母親も、飢えた虎のために身を捨てた釈迦も、本当は自分のためにやったことじゃなかろうか。
それが人間の性であり限界じゃなかろうか。
ならばそんな人間の言動に傷つき、嫌われたと思ったって、自分を否定されたように感じることはないじゃないか。
犬に吠えられて落ち込んでも仕方ないように。猫にそっぽを向かれて傷ついても仕方ないのと同じように。
所詮人間も自分の為に生きているということにおいて犬や猫と全く変わらないのだから。》

呪文の様に何度もそう言い聞かせても、まだ人にどう思われるか気にしてしまう。
自分に自信がないためか他人軸(他者評価)で自己を捉えてしまう。おまけに人間不信だから、ネガティヴな意識を持たれているだろうという思いが強くて、ますます対人恐怖が強くなる。
そしてそれが抑うつにつながるという負のループ。

自分はもう若くもないし、改善の見込みはあるのだろうか。
この先、生きていて希望はあるのだろうか。

今日もまた精神科デイケアに行ってそんなことを考えた。

おはじきセット

捨身飼虎は天国に行きたかっただけなんじゃないか