『放課後倶楽部』の活動日記

放課後の語り場。部員募集中。

自己愛の問題について 「神さまちゃん療法」の構築と実験

『夢判断』を書いたフロイト森田療法を編み出した森田先生は、自分自身が神経症に苦しみ、なんとかよくするために治療法を考え出したという。

自分も自身の自己愛の問題を克服すべく、自分なりに考察して治療法を考えてみたいと思う。

辞書で調べると「自己愛とは、自分自身を愛すること」とある。

・自己愛は、赤子の頃に、父母(特に母親的存在)に無償の愛を注がれることによって育まれるのではないか。

・赤子は無力で自分では何もできない。そんな状態でも、ただこの世に存在するだけで受け入れられているという感覚が、「無条件の存在そのもへの自信」につながるのではないか。それがないと、自己不全感に悩まされ続けることになるのではないか。

・大人になるともう赤子の自分は存在しない。無償の愛を注いでくれる存在もいない。だから、自己愛を獲得することが難しくなる。それが自己愛に問題を抱えた精神病者の治療が困難な理由ではないだろうか。

・逆にいえば、大人になってからも、自己愛を育む方法が見つかれば、治療は進んでいくのではないか。

認知行動療法に関係するマインドフルネス瞑想は、「ただ呼吸しているだけの自分」を受け入れることによって、存在そのものへの自信を育む。
自分自身が呼吸しているだけの赤子のようになって、同時に、それを受け入れるという父母のような存在にもなる。
それによって自己愛の問題を解消しようとしているのではないか。

・なぜマインドフルネス瞑想は、合わない人がいるのか。満足に効果を得られない人がいるのか。

・基本的に優勝劣敗の世界で、精神に問題を抱え危機に瀕している者に対して、ただ存在しているだけでよいという感覚を抱かせようとしても、無理があるのではないか。現実的にはもう大人で、強くなければ生き抜けない世界で、ただ存在しているだけでよしとするのは、まやかしになってしまうのではないか。

・人も植物もみな、究極、神様を目指すようにつくられている、遺伝子にそうプログラミングされていると思う。
ゆえに切磋琢磨の競争は終わることがない。

・了解もなく、そのような過酷な世界に生み落とされるという理不尽の償いとして、親は自ら神を目指すのとは反対に、赤子の奴隷となるように思える。

・親は、無条件に神にひれ伏ししもべとなって尽くすように、赤子に無償の愛を捧げる。

・泣き喚いて迷惑をかける赤子も、乳首に噛み付く赤子も、察したり許したりして、特別に尽くす。

・その行為を受けることによって、赤子は、自らを神のごとく特別な存在と錯覚し、出生を受け入れて許す。

・父母(男、女)は、赤子にとって絶対的な存在である。その絶対的で神のような父母に特別尽くされることで、勘違いの自信を獲得する。
神になったような錯覚の残像が、理屈抜きの自信(存在そのものへの自信)の正体ではないか。
神を奴隷にして神童貞を卒業できなかった者は、不満や不全感を抱き続けるのではないか。

・自己愛に問題を抱えるとナルシシズムに陥る。
ナルシシズムは、赤子の頃に成れなかった神を装い、魅力的な存在になることで、ファンを獲得し自らに尽くさせることで、満たされなかった欲求を解消させようとしているのではないか。

・赤子は便を漏らしても怒られないどころか、排泄できたのは健康の証拠であるとしてむしろ褒められる。
神は、世界をつくったと思われているが、戦争や差別などを放置させてもお咎めなしで崇められている。

・自分で自分をそのように特別な存在として大切に扱ってあげる。

・自己愛に問題を抱えている人間を特別扱いしたら、悪化するのではないかと思われているかもしれないが、いっとき、自分で自分を特別に、赤子のように神のように、扱ってあげて、神童貞を卒業させてあげてはどうか。
父母という相手はいないが、自分だけは自分を特別に一番可愛がって尊重してあげるということで、自慰行為にはなるかもしれない。

・マインドフルネス瞑想は、ただ呼吸するだけ、ただ歩くだけでよしとするが、このいわば「神さまちゃん療法」は、赤子のようにやりたいことをやって、どのような結果や感情が起ころうと、自分が自分の父母になったような気持ちで、声をかけてあげる。
漏らしても排泄できたこと自体を喜ぶように、ぶつかってもハイハイをやろうとしたこと自体を褒めるように。
原始的な部分を「すごい、えらい、よかった」とむしろ喜んで褒めてあげる。
よくないことをした時は、あくまでその子のためを思って言い聞かせるてあげる。

・鏡にうつった自分を、神様のように手を合わせて拝むのはあんまりだから、赤子をさするように、両手で頬を優しくさすってあげる。

・ネガティヴな気分になった時は、赤子を擁護してあげるように言葉をかけて、手のひらでポンポンと体を叩いてあげる。

この自分なりの考察と治療法をしばし試してみたいと思う。

待ち受けているのは、健全な自己愛の獲得か、肥大した自尊心による自我の崩壊か。